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CMC 1968

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NON-FIRING MODEL-GUN  REPRODUCTION 1968 NEW YORK USA


CMC が昔々に輸出した FRONTIER MODEL 。COLLECTORS MERCHANDISE CORPORATION というニューヨークの会社が扱っていた。頭文字を取るとCMCになるのは、自社でアメリカに独力開発した輸入会社だったのだろうか?
RMI は比較的に早くから輸出をしていてカタログもMGCの店で入手できたが、中田やCMCの製品は滅多に見なかったので、それらの製品を載せたカタログがどうして欲しかった。1970年代前半はまだイエローショックのダメージが大きく、せめて写真だけでも良いから黒いモデルガンを見たかったのである。
そこで洋書で見つけた住所に手紙を書いてみたが、返事は来なかった。きっと単発に近いくらい短期のビジネスだったのだろう。英語の手紙などもちろん書いたことがないから、辞書を片手に懸命の英作文である。昔から、学問はなくても熱意だけ人一倍だった。

当時はまだ商標権がどうこうなどと言わず、本体に堂々と COLT の刻印がある。
今はこの銃身をアーティラリーと呼ぶらしいが昔は「フロンティアモデル」と言っていて、私のように古い人間はそちらに親近感を持つ。これは箱にもFRONTIER MODELと書いてある。
他の人のブログに最近SAAがよく出ていてこちらも影響を受け、今日はちょうど窓から日が差し込んでいたのを利用して、真似したしだいである。
なんとなく画像が変だとしたら、それは網戸のせいだ。ネバダ州に蚊はいないがアパートに最初から網戸が付いていて、それを開け忘れて撮ったらこうなってしまったのである。例によっての一発撮りだから後日また撮り直すこともさほど苦にならない。
ここを閲覧している人はもう少し細部も撮ったものを見たいだろうし、あの時代ならではの金属製貫通シリンダーも価値ある一枚になると思える。
他の人達のブログ写真と何が違うかというと、私のものは黒色金属モデルガンで、しかも大昔のガス抜けバレルということだ。
黒く冷たく重い。しかも前方向からはインサートが見えないほど奥のほうにある古いタイプであることがうれしい。
更に言えば、乾燥した空気の所でいつも箱に入っていた為か今でも製造当時とさほど変わらない程度を保っている点が素晴らしい。日本でここまで出荷時の状態に近く残っているモデルガンは珍しいと思う。
唯一の問題は、勿体なくてハンマーを起こせず、CMCらしいあの金属的シリンダー作動音を楽しめないことだろうか。

FN 1910

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Fabrque Nationale 1910


1968年規制前、米国に輸入されたFN1910。この頃はまだ“BROWNING-1910”になっていない。
おそらくアメリカとしては過去最大の銃規制だと思うが、この年からハンドガンは全高+全長で制限が設けられ、ベレッタ1934,ワルサーPPK,ベストポケットその他が輸入できなくなった。
ライフルも一定以上の銃身長が求められ、通販で直接自宅に届くシステムは認められなくなった。
ハンドガンの宅配は1963年、長物の宅配も1968年で禁止された。ただし、今でも銃砲店を介すれば通販は合法である。
この1910が何処の店にもあった時代、ガンショーに行けばおそらく手続きなしでハンドガンを買えたのではないかと思う。日本の人には理解できないだろうが、それが昔のアメリカである。
今でも田舎に行けば釣道具屋とか金物屋で銃が売られているし、その地区では「それが普通の光景」である。都会には都会の感覚、田舎には田舎の感覚があり、アメリカの田舎というのは日本人の想像をはるかに超える広さと人の少なさ、そして規則の少なさなのである。

日本でも、人によっては「お爺ちゃんの遺品で、コレ見たことある。」とか「うちの親父(私服刑事)が家で見せてくれた。」或は「現役の頃、いつもコレを持っていた。」という人もいるであろう懐かしのブローニング32ACPだ。

今の若い人にはウソのような話だが、昔の日本警察は戦後しばらく拳銃の自宅保管を認めていた。
残念ながら資料が行方不明で正確な年を確認できない。しかし、実情は「認める」より「義務付ける」に近い規則だったと記憶している。米軍からのお達しだったようだ。

1962

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Monthly Magazine THE GUN FAN


昭和37年、それまで『拳銃ファン』(小出書房発行)だった本が『ガンファン』となった。
惜しくもこの号と翌月号を出してすぐ休刊になってしまうのだが、幸運なことに私は最終号以外のすべてを買っていた。
いつかは神田の古書街あたりで最後の1冊を手に入れたいと思い続けている。しかし、年に1度しか日本に行かないのだから実現は難しいだろう。

「昔の日本は、今ほど銃を特別視していなかった。」と、今まで何度も書いてきた。
まだ小道具の精巧な物ができていなかった戦後は、映画撮影用に警察が拳銃を貸してくれたし、東京の有名デパートがライフルの展示会を開いたりしていた。芸能人がガンコレクションをテレビ番組で公言し、世間もそれを咎めることなど全くなかった。射撃大会をスポーツ芸能ニュースなどで放送することもあった。
これは、まだ日本がそんなまともな社会だった頃、丸の内警察署が協力して作った『警察官はピストルをこのように操作する』という記事である。
当時は東京の警察でもM1917など米軍払い下げの銃を使っていたことがおもしろい。保管庫には日本製の拳銃もあったようだ。
朝礼と呼ぶのかどうか知らないが、銃を確認する際、上司の前で機関部を開放して見せなければならないそうで、これがオートだと面倒でみな敬遠する傾向があると聞いた。リボルバーならスイングアウトすれば良いだけなのに、オートだとスライドをホールドオープンさせてマガジンまで抜いた状態にしなければならないのがその理由だそうだ。弾が入っていればスライドは戻ってしまうから、わざわざスライドストップをかける必要があるし、もしブローニング1910などだとボトムタイプの面倒なマガジンキャッチだから本当に手間がかかる。アメリカの警察官は常にフル装填した状態で銃を携行するのだから、こういった確認作業はないかも知れない。
この銃器点検の話は、自称元公務員で「国松長官は俺が狙撃した」と言っている人物から聞いた発言である。ついでに「王将も俺がやった」と言ってくれたら面白い。

大変に古いMGCの広告は、初代コマンダーである。発売後すぐ回収命令が出た為、現物を見た人さえ少ない後撃針の発火モデル、つまり実銃と同じ構造の衝撃的新製品だった。人がまだ馬車しか知らない時代に、時速100劼覗觴動車を見せられたような驚きだった。

1962 June

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Monthly Magazine 1962 June


昭和37年、戦後ながいこと不可能になっていた民間人の拳銃所持が、競技用との限定付きだが法的に認められるよう改正された。
ただ、そこは日本のことだから“所持”といっても諸外国のように自由に家で保管することはできず、“射撃場内に措いて”とかなんとか難しい制約がついていたものと推測される。
昭和40年代の中頃までは後の日本ほど異常に銃を敵視しなかったので、ことによると一定の条件下では拳銃の自宅保管も認められていた可能性もなくはない。しかし、私はその時代に国体やオリンピックに出場していたような人を知らない為、実態を確認することができない。

銃所持の年齢制限が『14歳以上』から『18歳以上』に引き上げられたこと、空気銃は推薦を受ければ引き続き『14歳以上』で所持を認められたことが面白い。
そして、当時は銃を購入した後で警察に出向き、それから所持許可申請をすることになっていたのも興味深い点である。

昭和30年代に外国へ行く機会のあった人はよほどの金持ちか芸能人くらいしか居なかったが、彼らは欧米でライフルを買ってくることがよくあった。まだ装弾数の上限がなかったから、ここにある記事の米倉選手はウィンチェスターの15連発を買ってきたと語っている。アメリカではパスポートを提示するだけでなんでも自由に買えたし、機内持ち込みでない限り銃を飛行機に乗せることも問題なかった為、時々ハンドガンを買って来たことが後で発覚して謝罪したりする有名人がいた。
今では絶対にあり得ないが、当時は手荷物検査がなかったので、バッグに拳銃を入れたまま搭乗して日本でもそのまま税関を通り、かなり時間が経ってから自ら出頭する人がいた。新聞で「○○氏、拳銃不法所持で逮捕!」とかいう記事を読み、慌てて自分も警察に出向くのである。社会そのものが今とまったく違っていて、自首した後は執行猶予か何かを受け、比較的短期間で活動を再開できていた。

ページを開いた状態で撮るため文鎮がわりに使ったのは、大昔のMGC製品である。家の中いろいろな所に放置してあるモデルガンを使っただけで、Detective Special であることに特別な意味はない。撮ってから「実銃のほうが良かったか」と少し思うが、黒色金属ならこれはこれで良いだろう。
紹介したいのは、こういうガン愛好家の雑誌に自衛官や警察官の募集広告が載っていた事実である。

1962 April

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Yokohama Guns

ライフルの購入が今と比較できないほど簡単だったこの時代は、日本にもいくつか国産ライフルの製造工場があった。
これは、『拳銃ファン』4月号に紹介された(有)横浜猟銃製作所の記事である。
工場といっても外観は普通の民家に近く、30年くらい前なら『モデルガン改造工場』とでも新聞に書かれそうな雰囲気を出している。
ブロック塀の奥に昔風の自転車が置いてあるのもじつに懐かしくて良いものだ。昭和40年代中頃まではこのように重くて丈夫な実用車が中心であり、新聞配達も納豆屋さんも豆腐屋さんも皆このタイプの自転車を使っていた。いわゆるママチャリは存在もしなかったと記憶している。出前などは高く積み上げた箱を肩に乗せ、まるでサーカスの曲芸のように片手運転して若い店員が行くものだった。
文鎮代わりにしたのは実銃のブローニングだが、White Balance AUTO.で撮ったら黄色く写り、色あせたマルゴーのモデルガンという雰囲気になった。

ついでに撮ったのは当時欧米で売られていた小型オートで、もし第二次規制がなかったら六人部さんあたりが作りそうな、日本であまり一般的でないモデルがたくさん出ている。
オルビア,エレー,ヴェスタ,コンマー,アルカー,フォルチュナ,ヴァイトその他、今の人は聞いたこともない製品が昔はたくさん存在したのである。
アメリカにも比較的多く入ってきたオルトギーなどは、六人部さんの好みに合いそうな気がする。ヨーロッパ製にしては珍しくウッドグリップが標準装備のピストルで、当時50ドル以下、今は300ドルくらいが相場だと思う。

1962 March

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Belgium BAYARD 32ACP


事件の総数はいつも同じなのに、マスコミは時々やけに特定のネタばかり記事にしたがる傾向がある。食中毒が流行るとそればかり記事にして、自転車事故があると今度はそればかり連日報道するという調子である。そして、時にはまったく関係ないと思われる事象でさえ無理やり関連付けて「また○○の事故があった」と書き立てたりする。読者の関心をひくためなら、少しくらいのウソや誇張は商売上の必要悪と考えているのだろう。
昭和40年前後、ユルトレルという外国人が日本に大量の拳銃を密輸してニュースになってから、しばらくの間は拳銃不法所持のニュースが頻繁に紙上を賑わせていた。
当時の欧米は拳銃の購入手続きが極めて簡単だったうえ、船舶および航空関連の仕事に従事する人間は「日本で売るとすごく儲かる」ということで、内緒のアルバイトに手を出すことが多かった。なにしろ本国では合法的手続きを踏んで購入する銃なのだから、麻薬と違って“密輸”という感覚が出にくかったのだろう。
しかし、日本は他の国々と事情が違うため当然ながら問題になり、拳銃所持の噂がある所には次々と捜査の手が及んだ。
今も昔もマスコミや警察が最も好むのは、そのニュースが世の中に与える影響の大きい存在、つまり「宣伝効果があり、コストパフォーマンスの高い所を狙う。」ことである。チンピラ兄ちゃんを拳銃一丁で逮捕しても新聞やテレビは騒いでくれないし、いくら容疑があっても本格的暴力組織を調べるのは手間と費用が掛かり過ぎる。そこでたどり着く結論は例によっての「ガンマニア、またしても逮捕。」的な見出しである。
今回はそんな恒例儀式のひとつ、昭和40年の有名人狙いの新聞記事を紹介する。
登場するのは、大藪春彦・柏戸・千代の山・北の富士・桑田次郎・葉山良二・ワルサーP38,ハイパワー,S&Wリボルバーである。


写真では『拳銃ファン』4月特大号が出ているが、これはページを開いて撮るため重しに使う本で、紹介している写真とは常に違う号である。

1962 July

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Walther

1962年の雑誌で、既に断面図つきのワルサーAPモデルが紹介されている。
まだ Walther Armee Pistole に関する情報など殆どなかった頃で間違った記述もあるが、ここまで記事にまとめているだけでも素晴らしい。外国から資料を取り寄せることさえ難しかった昭和30年代の本なのである。

ワルサーAPは、シリアルナンバーから辿るとおそらく55丁程度しか製造されなかった銃で、古い銃の相場を知る為のブルーブックに値段が載っていない。
実際の製造数が S&W Model44 よりは多くても、そこはドイツ製だけあって結構な高値になると思う。昔のCOLTやS&Wリボルバー同様、ドイツ製オートマチックはコレクターにとって特別な何かがあるようだ。
CMCがモデルガン化するまで、日本ではピストルシューティングに関わる極めて一部の人しか知らなかったワルサーのこのターゲットモデルが、1960年代初頭の雑誌で表紙に使われていたのも興味深い。


今回の新聞記事登場人物は、若羽黒,沖レフリー,北の富士,千代の山,大鵬その他である。
あの時代に海外に行ける人は芸能人かよほどの大金持ちしかなく、そういった人達なら拳銃一丁などじつに安いものに思えて、「日本では買えないお土産」として気楽に購入していたのだろう。
第一ホテル強盗の記事に「重そうで、回転式で、小型。」ということから、同署はコルト式ピストルではないかとみている。と書かれている。
今も昔も、マスコミがいかにいい加減な記事を書くかの一例である。


中高年というより老人に近いオールドガンファンの中には、マークリードが立川基地でガンプレイしたのをテレビで観た人も居るだろう。
彼は何度か日本のテレビに出たように記憶しているが、この時は基地内の撮影だったから実銃使用でやり易かったと思う。当時の日本にはマテル改造の軽いモデルガンしか存在せず、重量バランスがどうこうという次元の話ではなかったのである。


これも老齢ガンマニアにはお馴染みの人、マンカレラ氏の写真があった。
中田系列のモデルガンはこの人の持つ実銃を参考にしたのが多いと思うのだが、本人はどこにも顔を出さないのでこれが貴重な一枚である。昔のミュージシャンは米軍基地内で演奏していた人が多いのと同じく、ガン関係の人は米軍の人と交流が多かったようだ。
現代と違って外国に資料を求めて行くなど夢にも思わぬ時代だから、基地内の知り合いは大変に有難い情報源だったはずだ。
文鎮代わりに使ったのはMGC初期型FN1910、ガス抜け仕様である。輸出用もその後バレル内が塞がってしまうから、初期型は価値が高い。

1962 Februaly


1962 January

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MGC SAA 44-40

今はもう日本で所持することのできない金属製ガス抜け仕様モデルガン。一見するとまるでプラスチック製である。
SAAについて殆ど知らない私は分からないが、MGC製にも初期・中期・後期があるらしい。別の分け方では最初期・王冠マーク期・末期と言えるそうだ。
金属製はみな銃口が塞がっている物しか知らない若い人は、この丈夫そうな肉厚バレルで前側からシリンダーの奥まで見えそうなモデルガンを見たら、「ぜったいスタ管で撃ってみたい!」と思うことだろう。値段は安くないがその気になればいくらでも買い換えられる時代だったから、エバニューあり後撃針ありでとにかく豪快な発火を楽しんだモデルガンである。

イメージ1 = 拳銃ファン誌の横に置いたのはマテルファンナー。子供用玩具でサイズも小さい。トリガーガードだけ大きいのはダブルアクション仕様だからである。


イメージ2 = この頃、相撲取りが海外巡業の際ピストルを買ってくることが流行っていた。じつは力士だけがしていたことではないのだが、他には海外まで出て活躍する日本人のスポーツ選手がいなかったのと、芸能人と異なり力士達は何人もが同時にピストルを買っていたから目立ったのである。


イメージ3 = 川崎市さいか屋デパートで開催された銃砲展。主催-神奈川猟友会、後援-神奈川県警察本部。
デパートでこのような展示会が開かれること、県警が後援していることなど、今とはあまりにも時代が違い過ぎる。
拳銃の出品は米軍の協力と書いてあるが、この本にある12丁すべてがその時の写真かどうかは定かでない。ハイスタンダードだけは展示物をそのまま撮ったのが分かり、それ以外の銃は別の所でプロが撮影したように思える。
展示会は大盛況で、猟銃所持手続きなどの説明もその場で行われていた。この催しの成功には、県警の協力と米軍ガンクラブ会長マンカレラ氏の功績が大きいと書いてある。



イメージ4 = 当時は44口径のライフルも所持できたようだ。今の日本では認められないと聞くが真相を知らない。

イメージ5 = M1ガーランドのスポーターモデルがあった。

イメージ6 = 何かの本または誰かのブログに「ビリーザキッドのライトニングは写真が殆どない」と書いてあった。しかし、実際はそうでもない。
銃としては問題のあり過ぎた製品だが、じつに魅力的な形をしている。オールスチールの実銃でもダメだったのだから、ライトニングを亜鉛やプラスチックで作るのは、おそらく無理なのだろう。

MGC 1911A1 1960s

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MGC Government Export Early Model


窓から陽が差し込んでいたので撮ってみた。
写真としては意味がないだろうし以前にも似たようなものを載せたから、無視して頂いて構わない。「日本にない日本製モデルガン」というだけの価値である。

イメージ1 = 外観は日本仕様と同じでも内部が少し違い、ファイアリングブロックもファイアリングピンもない構造だ。箱なしで長いこと置かれた為か色が褪せ、部分的に白い汚れが付いている。初期の製品はエッジがしっかりしているように感じられる。

イメージ2 = こちらは実銃。一度も撃ったことのない新品なのに角が丸い。リフィニッシュに出したとき研磨されたのだろうか。今はこれをメッキモデルにしてしまおうかと考えている。

イメージ3 = 何度も使った変わり映えのしない構図。

イメージ4 = MGC初期型の輸出用はこういう銃口部だった。国内用の棒状インサートは見えず、塞がっているのもかなり奥である。
輸出用は時代によっていろいろな違いがあり、今回のこの製品はスライドに“強度を落とす為の”溝がない。したがってブローバック化するには最も安全なスライドである。

イメージ5 = 実銃バレルは、ブッシングから先に少し出る長さのものと、面一(ツライチ)になるのがあるようだ。

 
イメージ6 = これより更に前の製品はショートリコイル機構だった。そのタイプのバレルが欲しい。

イメージ7 = このウッドグリップは、昔々御徒町のボンドショップで買った。当初はショップが2件あり、CMCに近い店をサービスセンターと言っていたように思う。上野に近い店は、何年頃まであったのだろうか?


いつまでたっても写真は素人のままで上達しない。誰かに撮って貰いたいものである。

1962 August

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ユルトレル(フランス航空機長)はかなり大量にピストルを持ち込んだようで、1件の捜査で10丁以上押収されたりしていた。本国での仕入れは合法だから、日本で売った時はずいぶん儲けたのだろう。
これは別件だが、当時の新聞記事によると日本刀・ライフル・ピストルなどを預かった者が7千円から5万円の罰金刑を受けている。あの頃の5万円だから相当な高額といっても、今の法律に比べるすごく軽い刑に感じられる。
日本人が海外からピストルを持ち帰るほか、海外の芸能人が持ち込んでニュースになることもあった。本国では誰もが簡単に銃を買えるので、まさか日本でピストルが御禁制の品であるとは思いもしなかったのだろう。


明光産業のあった所は、1960年代前期だと都電が通っていたようだ。銀座の都電は乗ったことがある。しかし、新宿の記憶はまったくない。子供すぎたのだろうか。

ハイスタンダードは安かったから、密輸品のなかによくあったようだ。
22LRの弾はライフルと共用のため、当時簡単に所持できたライフルを持つ人のあいだで実用的な拳銃だった。

昔、兵林館というライフルの会社が神田にあった。

後にハドソンとなる会社のモーゼルは、1962年で5000円もした。あまり出なかったようで、何処の店でも現物を見ることがなかった。

ページを開くための文鎮として使った COLT DETECTIVE SPECIAL 。手振れしている。

『拳銃ファン』から『ガンファン』となった。

1962 Februaly A1

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CMC Government 1911A1


日本橋の三越デパートで開かれた世界の狩猟展。
展示だけでなく販売もおこなっていたのか、ある程度は現物を手に取れていたのか、来場の男性が銃を吟味している。今の法律だと所持許可証を持つ者以外は銃を触ることもできないと聞くが、昔はそんな馬鹿な規則を誰も考えつかなかった。

さすが東京の大手デパート、展示会場も広くて明るい。

『警視庁拳銃射撃の一日』 実際の現場では使わなかったと思う14年式ピストルまで保管庫に入っていた。十分な数の米国製ピストルが揃わなかった時代だから、予備の銃として旧日本軍のものも残しておいたのだろう。
東京都とはいっても未舗装の道路があったから、二輪車のフェンダーが深くマッドガードも大きかった。こういう仕様になっていないと車体や服の汚れがひどかったのだろう。

昔はいろいろな所に警察用の射撃場があったようで、私の住んでいた町にも県警の練習場があり、金網の外から見学することができた。


兵林館は御茶ノ水駅近くの電車通りにあった。この“電車通り”というのはたいてい都電の通っている道を指すものだった。創業明治13年、場所は麹町。最初は軍の教科書を作る会社で、それがやがて三八式小銃を作るようになり、日本初の機関銃も兵林館が作ってみたと書いてある。工場は北区赤羽と天竜川の近くにもあり、神田小川町は販売店だったようだ。昭和30年代は14歳から空気銃を所持できたので、兵林館店内には高校生の客も珍しくなかった。


以前にも書いたが、当時は“先に銃を購入してから”警察に譲渡承諾書と許可申請書を持って行く制度だった。所持許可の交付は100円だったとある。


銃の写真がないと物足りないと思い、CMC Government を一枚撮った。外観は日本仕様だが内部はいろいろ所にスチールを使っている。バレルも新規に作ったスチール製である。何故もとのバレルがなくなってしまったのかは、あまりに昔すぎて理由を覚えていない。
正面から撮るとだいぶ奥のほうまで銃腔のあいていることが分かる。しかし、何かを撃ち出そうという気などまったくないから発火機能はない。スライド内にある改造防止の硬材インサートも残っている。1971年10月20日以後このような銃口あきの金属モデルを日本国内で持つことはできないが、せっかく米国に持ってきたのだからということで、輸出仕様のモデルガンを作ってみたかったのである。

Sturm Ruger 5 1/2 Bull Barrel

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Sturm Ruger Stainless


どうもフォーカスが合わないようなので、敢えて小さめのサイズを載せることにした。
これは、30年前にサンフランシスコのガンエクスチェンジで買ったスタームルガー22LRだ。
あの頃はまだ15日間ものウェイティングピリオドがあって面倒だったが、購入手続きそのものは後の時代より簡単だった。
今はカリフォルニア州でハンドガンを買おうとすると、銃を安全に取り扱うことができるかどうかのテストを受け、それに合格したカードを取得していなければならないし、実際に現住所に住んでいることを証明するため、公共機関などから届いた郵便を持参しなければならない。そして、自宅まで持ち帰るガンケースとトリガーロックも用意していく必要がある。
30年前は、他州同様そんな面倒なことをまったく求められていなかった。本人に犯罪歴がなく、裁判所から家庭内暴力などで「不適格者」との命令が出されていなければ基本的に誰でもハンドガンを買うことができた。そして、長物はカリフォルニア州でさえその場でお持ち帰りができたのである。
日本から母親が遊びに来ていて、私と一緒に出掛けるのなら何でも面白かったようで、この銃を取りに行ったのも母親と一緒だった。兄と姉はまったく私の趣味を理解しない人間達だが、両親は昔から私のガン好きを認めてくれていた。

射撃にまったく関心のない私も、このスタームルガーだけは良く撃った。音が小さく反動も少ない。そしてステンレスだから後の掃除も楽なのである。
ラスベガスは本当にガンショップが多く、自宅から会社まで行く15分くらいの間に4件もある。反対方向に行けば室内射撃場も10分くらいという恵まれた環境に居るのだが、何故か私は撃ちに行くことがない。たぶん、年齢とともに視力が落ちて射撃が楽しくないからなのだろう。


Western Arms はこの箱に良く似たものを作っていたようだ。しかし、オリジナルは箱の開け方が日本製と異なる。

写真をうまく撮れる人が見たら「ヘタ~!」という光の当て方だろう。窓から入る光はこれが精いっぱいだったのである。

HONDA 1960s

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銃を入れてある段ボール箱から何故かホンダの取り扱い説明書が出てきた。写真はほぼ実物大である。

まだ四輪車の製造など始める前の古いもので、この頃にちょうど二輪免許を取った懐かしい思い出がある。
当時は二輪の免許にクラス分けがなく、もちろんヘルメットも不要だった。
無免許運転など滅多にバレることがなかったから多くの人が公道で練習して、試験にもその無免許二輪で行ったりしていた。
実地試験は構内で行われ、使用車は富士重工のラビット125cc。左のグリップがクラッチで、右のグリップが三段ギヤの切り替えだったと思う。しかし、普通の二輪と違って遠心クラッチになっているためそのまま停止してもエンジンは止まらない構造である。


CB72 が月収の10倍近くしたこと。初期のCBとCLはタイヤサイズが異なること。神社仏閣型と言われたプレスボディーの二輪車があの頃たくさん走っていたことなどが懐かしい。

Gun Smithing

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Christmas Advertisement

American Gunsmithing Institute (AGI) がよく宣伝パンフレットを送ってくる。
今月はパーツを買ってきて自分でライフルを作ろうというもので、日本の人がみたらぜひ試してみたい企画だろうと思う。
日本では完全な無可動銃でも高額で売られているのだから、払い下げパーツなどから組み立てるミリタリーライフルは“タダ同然”に安く感じられるはずだ。
ただし、実際の組み立てにはプロの道具と技術が必要で、本当に撃てる銃を作るのはそれなりの努力がいる。
モデルガンマニアの場合「撃てる必要などまったくない」から、第二次規制前の、あの懐かしい全鉄製ガンを作れたらそれで良いと思う。

一見するとガバメントに思えるこのフレームとスライドはMGC前期のコマンダーだ。
部品のほとんどを完全な状態で持っているが、きれいに仕上げ直して少しスチールパーツも入れたいと考えながら、もう何年も放置してある。
ある程度実銃部品を流用できたら簡単なのに、MGC製モデルガンは内部が実銃と異なっていて、ほとんど何も使えるものがない。
時間とやる気があれば少しは部品も自作できるが、諸般の事情でそれを永遠の先延ばしにしている。

1962 Advertisement

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Old Magazines


1962年頃は輸入玩具が中心だった。
アメリカ製が本当に子供のオモチャだったのに対し、イタリア製は大人も満足させる何かを持っていた。特にコブラとかスザンナは火薬もコブラキャップという輸入品で、撃ちガラでさえコレクションの対象になる憧れのものだった。
スザンナはどういう構造だったのか良く分からないが、コブラはプラスチックの銃身にプラスチックの板が入っていただけなので、簡単にその部分を取ることができた。
そして、当時はどこでも誰でも購入できた空気銃弾をシリンダーに入れて撃つのが一部の者達で流行ったのである。日本の紙火薬よりだいぶパワーがあったコブラキャップは結構な威力を持ったため、やがてコブラは発禁となった。もっとも、威力があるなどと言ってもそれは銃口から数十センチ先だけの話で、どこに飛んで行くかまったく分からない改造玩具では「威力より、何に当たるか分からない。」ことのほうが危険だった。
シリンダーが逆方向にスイングアウトするのは、玩具であることを強調するのが目的だったと思う。


拳銃ファン誌には毎月このガン解説図鑑のような記事があった。
どう見てもコルトでなく、S&Wのテリアらしき銃にディティクティブ・モデルとの説明が付いている。
書く側がこんな簡単なことを間違えるとは考え難く、昔の本はよくこういう間違いがそのまま印刷されて出来上がるものだった。


コンボライフルの説明もある。後にMGCがPPKを使ってこれを製造販売した。
しかし、現実としては小口径ピストルの機関部を利用して長い銃身を付けてみたところで、ほとんど意味がないように思える。
当時としては比較的うまかったこの記事のイラストは、1970年代前期コレナガの広告にあった絵と良く似ていて、初めてその広告を見たときずいぶん懐かしい気がしたものだ。いったい誰が書いていたのだろう。


左は実銃ブローニングを本の上に置いたもの。右はその後モデルガン化されたスタームルガーのオートで、まだマーク兇砲覆訌阿寮宿覆任△襦


1965年7月29日、渋谷ロイヤル銃砲店に男が立てこもり、警察と睨み合う事件があった。
この新聞記事を拡大しても読みにくいので、更に詳しいことを知りたい人はネット検索してみると良いだろう。
昔は古い事件を知りたいと思ったら図書館に行って縮刷版を調べるしかなかった。便利な時代になったものだ。

1962 LAST

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MGC Browning 380 & CMC Commander


All About Gun とあるが、正しくは Guns と複数形であるべきだと思う。本当はどうなのだろう?
この右下にあるディスコネターの絵が分かり易くて良い。モデルガンのディスコネターは、六人部さん設計のCMC初期型ガバメントが最初だとかMGC44Auto.であるとかエジプトのアイデアだとか諸説ある。
しかし、昭和30年代の本にこの絵が載っているし昔からヨーロッパ製オートに同様のシステムが採用されているから、モデルガンメーカーの発案ではない。
古いガンファンなら多くの人が知っていた構造である。


埼玉県吉見の百穴に、昔は射撃場があった。

現代日本の規則では絶対に認められない自由な射撃が行われていた。銃を向ける方向も、射手以外の人が至近距離に居ることも、まるでアメリカの田舎なみにお気楽である。


『映画人射撃大会より』とあるように、昔は鉄砲好きであることがマイナスイメージでなく、その趣味だけで反社会的人物とみなされることがなかった。今は GUN = 反社会的嗜好 つまり犯罪予備軍とみなされる。むしろ 銃 = 悪 と短絡的に考えるその思考法こそが歪んだ社会を作ると思う。


この新聞記事の面白いところは「拳銃の輸入は禁止」とあらためて書いていることだ。このときの法改正までは一律禁止でなかったかのように読める。密輸という行為を禁止していただけで、“拳銃”の密輸を禁ずる独立した法律がなかったのだろう。


プラスチック製に見えるがどちらも金属製モデルガンで、1971年10月20日以前の完全ガス抜け仕様である。輸出用もその後は銃口の塞がったものが主流になるため、本当のモデルガンの姿はなかなか見ることができない。

CMC Government 1st.

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CMC Early Export Model


先週撮った写真が2枚残っている。
最近のカメラはISOが大変に高く、3200とか6400で撮れると聞いた。
私の古いカメラは、800を超えると画質がだいぶ荒くなってしまう。したがって、明るい日か照明器具が揃うかしないとほとんど撮ることができない。

夜景など、手持ちだと滅多にうまくいかない。
いつかは新しい物を買いたいと思っている。

MJQ P38

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MJQ P38

何度か登場したこのモデルをまた使ってしまう。
シリアルナンバー50番台は本当の初期ロットだと思う。おそらく米国に渡った僅か数丁あるいは1丁だけの商品サンプルなのだろう。
もちろん未発火の新品同様である。黒色モデルと違い、触ると部分的にメッキが色落ちしてしまうが、今まであまりカラ撃ちもされていないようだ。
せっかくの貴重品なのに、私はP08やP38にまったく興味がないため猫に小判の状態である。


この新聞記事で面白いのは、昭和40年の時点で日本には49万丁の装薬銃が登録されていて、銃砲店が1800店あったこと。
そして、17歳で軽自動車が持てたことである。米国は16歳から自動車免許を取得できるが、今の日本は18歳くらいだったと思う。


大鵬・柏戸の拳銃不法所持が3万円の罰金だったことも面白い。昭和40年の3万円は、現代の30万円くらいに相当するだろう。
略式命令がなんであるのかは、警察関連の規則や法律に詳しい○氏に聞きたい。

1960s 1

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Remake Hubley Government Model (This photo is image 5.)

イメージ 1 = バレルとブリーチなどが欠損した状態で入手した MGC Commander 1st. Model 。
グリップは残っていたが経年変化で痛みが激しく、プレーンの木製を自作した。
バレルはチャンバー部からすべてスチール削り出しでインサートもない。チャンバーはスチール製。発禁コマンダーと同じくブリーチ内部に撃針も再生した。この仕様だと第一次規制前でさえ市販はできないが「ここは日本じゃない」。
右上はベレッタ。ハンマーのリング部分が欠損した状態を名古屋のM氏が譲ってくれた。大変に貴重な品物を無償で提供されて今でもお礼を言いたいのだが、音信不通でメールを送れないのが気がかりである。

イメージ 2 = 左からベレッタ、コマンダー、復刻版(自作)コマンダー。
ベレッタはほぼ最終型と言えるもので、改造防止策として内部が大幅に切り取られ、バレルにも深い深い溝が切ってある。
コマンダーはこれもまた名古屋の人 T氏が譲ってくれた物で、私はこのようにいろいろな人の後押しがあってブログを続けていられるのである。
何故か取り外し不可能に作られているバレルが完全に欠損していた為、最初は真鍮製のバレルを組み込んでみた。しかし、作動させると黒染めが部分的に剥げて金色になり、黒色モデルだとそこだけ目立ってしまう。そこで、擦れてもあまり気にならないスチールバレルに替えた。その際、思い切ってチャンバー部もスチール削り出しにしてヒューブレーの弱点だったモナカの張り合わせが出ないようにした。
一番右の復刻版コマンダーが、MGC製と同じくモナカの張り合わせが見える本来の姿である。
MGCのハンマーはリング部分だけ別の物を溶接してあり、土台が斜めになっている為すぐここが取れてしまうのである。


イメージ 3 = 右上が本物のヒューブレー。ダブルアクションで巻き玉火薬を使う正真正銘の玩具である。
左は作業中断のまま何年も放置してある、ヒューブレー・ガバメントの復刻版。外観の差は大きくないが内部が完全に別物であり、ここまで行くのにかなりの努力がいる。


イメージ 4 = ヒューブレーにはバレルなど存在しない。スライドを引くとこのように巻き玉火薬を入れる部分が飛び出すだけで、ハンマーも起きない。
グリップは上部内側の突起を四角い穴に入れて、下側をフレーム貫通の長いネジでとめる。つまり、後のモデルガンのようにグリップパネルをネジでフレームに固定することもできないのである。


イメージ 5 = 昔の製品らしく白黒写真にしてみた。


写真の数が多過ぎて一度に紹介しきれない。残りは明日以降になる。
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